結婚の概念
結婚の概念について

第二の点

結婚の概念に内的な変容をもたらす第二の点は、肉体についての新しい評価である。イエスの復活から、肉体に関して全く新しい光が投ぜられる。それは、もはや単なる偶然によってのみわれわれに属するところのものではなく、永遠の運命を担っているものである。死のかなたにおいてもまた、自我は新たな肉体的存在において神にまみえるであろう。かくて肉体は、ヘレニズムが考えているように、-外なる器1おそらく牢獄1ではなく、われわれの本質的な,一部である。神のがわから見れば、われわれは体と心と霊とのわかたれざ慰全体である。今やなんぴと何人も、単なる外的偶然的なものとして肉体的関係を結ぶことはできない。

それは人格の交流であり、真実に対する人格的な義務によって、威厳を与えられ、聖別される。結婚とは、ふたりの人間が彼らの全存在をあげて結合し、身も心も所属しあうことを意味するからである。ゆえに、そこには必然的に結婚の単一性と不可分離性が伴う。この肉体の新しい概念と、その性関係における意義とは、ヘレニズムの立場に反対して、使徒パウロ自身により、特にはっきりと強調され、その真価を与えられている。結婚の肉体的側面を、神の御前における一つの義務として見たのはパウロであった。

「妻は自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは夫である。夫も同様に自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは妻である」(ーコリソト七・四)。また、一方の配偶者によって他方がきよめられることに関して、大いなる言葉を語ったのも彼であった。「なぜなら、不信者の夫は妻によってきよめられており、また、不信者の妻も夫によってきよめられているからである。もしそうでなければ、あなたがたの子は汚れていることになるが、実際はきよいではないか」(エコりント七・一四)。ごの結びつきは非常に深いので、もし一方の配偶者が信仰に立つならば、他方は彼によって彼とともに信仰に入れら,れ、彼とともに神の御前に引きゆかれるのである。

「からだはわれわれρ生命の最も重要な部分を占める器として、聖霊ー彼はわれわの中に、宿ることを欲し給う一の宿り給う宮である。この宮は汚してはならぬ。キリスト老は純潔ど貞節とに招かれている。たとえヘレニズムがからだを非常に冷淡に取りあつかい、,そのために特殊な観点からは純潔ならざることまでが、さして重要でないことのようにみなされ得るとしても、今や新たな態度は次のように表明されている。

「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」(ーコリント六・一九ー二〇)。神はわれわれの魂や肉なる生命によってのみならず、われわれの肉なる生活によってもほめたたえられることを欲し給う。

性生活、罪によって最も深く汚されているわれらの存在のかの分野もまた、神の栄光に仕えるという偉大な運命を与えられている。「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖めて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように」(ーテサロニケ五・二三)。この基礎の上に、あの無条件の純潔に対する要求、すなわち全体として結婚観と密接な関係のあるあの要求が打ちたてられている。

「しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」(マタイ軍二一入)。新約聖書の立場からは、結婚前または結婚外の性交は、共に神聖なる厳粛さをもって拒否されるつそれは狭量な禁欲主義からではなく、事柄の深さと偉大さとのゆえである。全生活をもって神の前に立ち、彼の生活のあらゆる衝動が神に属するものであることを知る者は、情欲や性交を例外のものとして、自分に責任のない無関係なものとして取り扱うことはできない。この領域においてもまた、彼は自らを聖なる義務に服するものとみなすのである。